昭和39年12月12日 夜の御理解
信心は『家庭に不和のなきがもとなり』と、信心は『家庭に不和のなきがもとなり』と仰います。教祖が仰っておられる、不和のないと言う事はどう言う事だろうか。世の中が穏やかでまぁ言うならば大きな声の一つも聞かん、穏やかであると言う事だけではない。例えば皆がそこの主人の気持に心を合わせて行くと言う事でもない。教祖が仰るこの不和というのは、どう言う様な不和のなきが元と言うのはどう言う事かという。
( ? )中には、例えば様々である。同じ例えば子供の中にでも、激しい性格の者もおりゃ、優しい性格な者もある。赤もおりゃ、青もおる。白もおるという訳です。その様々な色が、調和して行くと言う事である。ね、(ぼっと?)して、自分が白であると皆を白にしなければいけないように思う。又、そのお父さんが白なら、その白い一色にならなければいけないように思うというようことではない。
様々な色が、様々に調和を保って行くと言う事。ですからまず自分自身の心の中に不和があってはならないと言う事。自分自身の心が穏やかでなからなければならないと言う事。いうなら自分自身の心の中が、和らぎ喜ぶ心でなかにゃいけないという事。ね、ですからその、和らぎ喜ぶ心の中には、例え自分が白であっても、相手が赤であってもそ白と赤との和というのは保てるのである。
まぁ例えて言うならばですね、私がです、私がまぁとても清潔好きといたしましょう。ところが家内が、それとは反対にもうろくそなかといたしましょうか。お前ばっかりはろくそなか、と言うておる時には、調和しないのですね。けれども例えばなら私がですよ、ね、そういう例えばろくそうなしておる、その家内の姿を見てからです、ね、それによって私が磨かれ、それによって私が修行が出来る。
それによって、まるで自分の姿を見るように思う。例えば。形の上にはいかにも清潔のようであっても、心の中はやはり、なら家内が形に現しておるように、ろくそなかものが心の中にある、とこう見ると。家内っていう、例えば親子、親子でも家内でも同じですけれども、子供は自分の鏡だと、こう教祖は仰るし。夫婦は一心同体とさえ仰るのですから。ね、ですから、一心同体である家内が、ろくそうなかならば。
例え自分が清潔好きであっても、心の中にろくそろくそうなものがあるって。家内は私に自分のろくそうなことを教えてくれると言う様に、なった時初めて私は調和したのだとこう思う。ね、それを憎んでないでしょうが。調和して行くと。家庭に不和のなきがもと、と言うのは、仲良う、むつまじゅうして行くと言うことには違いはないけれどもです、本当の仲良いむつまじゅうのではなくてです、ね、
修養とか教養とかがです、ただ大きな声を出しちゃいかんとか。あなたこなたと呼ばねばならんとか。まぁちった辛抱していかにゃならんとか。これでは本当なことではないです。ね、それのおかげで、例えば私が白であるならば、赤のおかげで自分の心の中にあかのあることを分からせてもろうて、そこに磨いていくなら、改まっていくなりといったような、ことになって来る時に。
私は家庭に不和の無きがもと、というのはそれであり、こりゃ家庭だけではない、自分の心の中にも不和があってはおかげ受けられないと言う事。これは家庭だけのことだけではない、自分の周囲だって。例えば椛目お広前にご縁を頂いておる、お広前に、信者同士だって同じことであると言う事。私の信心を頂いておる、10人の人が10人、十色で違うのだから、あれが本当でこれが違たると言う事はない。
その中から、自分の有り難い和らぎ喜ぶ心を持って色々と、その中から教えらえるというような事になってくる時に、もうそのことと調和して行くことになるのです。お互いがおかげを頂きたいと思うならですね、本当に本気になって教祖のみ教えに取り組まにゃいけません。ね、果たして自分の心の中に不和な心、和ではない心がありはせんかと。自分の思うように、しなければ気がすまんと。
私共のもう(いっとひとすれが?)その出て来るんですね。自分の思う様にしなければ、例えば子供なら子供でもその叱る。喧しく文句を言うと。けどもそれが段々段々やはり少なくなって行くと言う事。子供の中に例えばそうした困った子供がおるならばですそういうものが、私の心にもあると悟らせてもらって、ね、その事に対してお礼を申し上げたり、その事によって磨いたり改まったりしていく事が有り難いのである。
仲良うしていかにゃならん、仲良うしていかにゃならんと、勿論家庭に不和の無きがもと、と言う事は仲良うしていかにゃならんのだけれどもです、仲良うしていきたいと思うけれども性格が違う。赤であったり青であったり、白であったりであるから、なかなか自分の思うようにはならない。ね、ならない時でも、そこから私は信心にならせて頂くとこう、そこから、相手を、まぁそういうものを。
自分の信心の根肥やしにして行く事によって、初めて不和のない調和のした、いやそれと、それのおかげでと、それでそれとかたぎではなくてそれともうゆ、お、もう自分の見方にしたようなものである。これが私は不和のない心だと思うですたいね。だから、そういう事にいよいよ焦点を置かせて頂いたらですね、さほどに難しいことじゃないと思うんですね。だから(発心を?)頂かにゃいけません。
これは、ちょっと意味が違うのですけども、今日午前中私が奉仕させて頂いておりましたらね、午前中に2度のお参りをした人があった。ありゃまた参って来なさっておる。もう先生もう本当に、この事をおかげ受けんならんし、もう繰り返しお願いしにゃ、お取次頂かにゃおれんのです。あるおかげを頂かねばならんことがあるので。おかげ頂かにゃいけんねと、2度目のお取次をさせて頂きよりましたらね。
神様から新しい神の小たわしを頂いた。御心眼に。ははぁたわしはこう洗う、磨く物です、洗う物。この人が改まらにゃいかんこつばいなぁとちょっとこう思うた。ね、そげんお願いにばっか来てっちゃどうすんのて、しっかり改まらにゃでけん。自分で磨かにゃでけん。と私は思うた、神様にそんなことを思うたら、神様からですね、「こうたき泉」っていうあの、上滝さんの息子さんの名前を頂くんですよ、字で。
例えば、それから、これには色々深い意味合いがありますけれども、例えば何ですかね、上滝といや、高いところから滝がダアーっと落ちておる。激しく落ちておる。けれどもそれが、そのどこかの泉に入って、穏やかな水にこうなるわけなんですね。激しい水が穏やかなこの水になっていくと。まぁそういうことから私ヒントを頂いたんですけれども、ね、例えば信者が氏子がです、ね、
(日にに?)何遍もお参りでもせなきゃおられんほどに、苦しいことがもしあるとするならばです、その人が信心参りで参ってきよるとなら、また(いらしらず?)。苦しいことがあってどうぞ先生お願いします、というて2度も3度も参ってきておかげ頂けんごたる時にはです。ん、取次ぎの者そのものが磨かにゃいかんぞ、と言うことだと悟らせて頂いたんです私は。
信者が生き生き頼みよるじゃないかと。お前が磨け、お前が改まれ。と言われているような気が致しました。それを(どうどいっしょう?)家庭の上に持って来たリ、ね、子供が難儀をしておる。性格が言わばその激しいために、ね、子供が難儀をしておるならです、その激しい性格が和らぎ喜ぶ心、言わば泉のような心にならせて頂くためにです。あんたが改まらにゃならん。
というのではなくて親自身が改まる、親自身が磨いて行くという事になったらどうでしょう。そういうところから、私は今日の家庭に不和のなきがもと、と仰ることを分からせて頂いたような気がするんです。家庭円満じゃなからにゃならん、家庭円満じゃなからにゃならん、っという事はです、それは信心がなかっても例えば円満の事があります。けどそれは、ただ普通のことであって、信心でおかげの頂けれるような状態。
信心は家庭に不和のなきがもとと、そういうような家庭の上におかげの受けものがあるとするならです、おかげの受けられるような。不和のない心というのは、どういう心かというと、例えば赤と白と全然反対のような性格の者が家の中に住みおうておってもです。それが、調和を保っていくという事が、不和のない事であるという事。赤一色にしなければならないという事もなからなければ。
白一色にしなければならないという事もないという事。ね、赤のおかげで、赤のおかげで私が分からせてもらうと、白のおかげで、私が磨かせて頂くと。家内がろくそうなおかげで、私の心の中にある、ろくそうなものを悟らせて頂くことが出来たと、そこに私は、いうなら調和の心というかね。不和のなきがもと、と仰るのは、そういうような事を、不和のなきがもとと仰るのではなかろうかと。
まぁ日頃、私共感じておった事から一段一段一歩、こう深く掘り下げて頂いた、これはみ教え。いわゆる、おかげの頂けれるための、家庭円満の事なのです。ただ家庭だけがおかげを受けられるというのではないと。そういうような場合でも、それが調和していくという事なのです。それが、私はおかげの頂けれるもとであると、いう風に思うのですね。おかげ頂かれました。